ハスマナやダウ90000のコントがどうして好きなのか

ハスマナでのトークやダウ90000のコントを見ていると、自分を縛る自意識は確かに存在してるけど、その存在にしっかり気づいてますよって顔をして、実際に適切な距離をとって、変な自意識から解放されてまっすぐ生きようとしてる感じを受ける。そこがめちゃくちゃくすぐられる。

自意識に気づいてるフリをしていたい。そこまでなら自分も同じな気がする。けど自分は、自意識にがんじがらめになって自分が何を考えてるのかも分からなくなってるし、本当はやりたいと思ってるのに気づかぬうちに蓋をしてしまってるものもめちゃくちゃ多い気がする。

そんな自分から見ると、気づいてるフリがフリのままで終わることなく無駄な自意識からは解放されて、実際に思ってることを言い、やりたいことをして、まっすぐ生きている姿がすごくまぶしい。

 

あと、ハスマナやダウ90000を楽しめている今の自分は過去よりも自意識から解放されて、楽しみたいものをちゃんと楽しめるようになったと思えるところも好きの理由。昔の自分はキモくて、AV女優が普通に話してる番組というだけでなぜか楽しく聞けなかったし、サークルのような若い男女が集まった集団というだけでなんとなく敬遠してしまう感じがあった。けどその段階から次のステップに進んで、いいものはいいし、楽しみたいものを楽しめてるんだぞ!今の自分は!!と感じてる時なんかはちょっと誇らしく思えちゃう。だから好き。

 

ハスマナが一人になっちゃったの寂しい。一人になっての初回、めっちゃ面白かったんだけどね。

どうして始めるのか

まともなコミュニケーションの取れる真人間になりたい。

相手から投げられたボールをきちんとキャッチすることもままならないし、拾い上げたボールを投げ返したらあらぬ方向へ飛んでいく。

相手を変に持ち上げたり、ちょっと下に見たりすることなく、対等に対話できるようになりたい。大豆田とわ子と初めて対面したオダギリジョーのように、相手の話をきちんと聞いて受け止められる人になりたい。

今の自分にはできないと思うことだから、この人はまともにコミュニケーションができていてすごいなと感じる人には強く憧れてしまう。けど憧れてちゃダメ。自分のコンプレックスをその人に補完してもらおうとしても、自分にとっても相手にとってもいいことがない。相手への依存ありきの人間関係ではよくないと思う。だからなりたい自分に自分でなるしかない。自分で自分の人生を歩くしかない。

 

不定期ではあるけどここ数年日記を書いてきて、自分にはこういうとこがあるなという問題意識は感じられていると思う。しかし日記を書いて自分のここがダメだなとウダウダ思ってるうちに、次のステップに進んだ気になって満足して、何も変わることなく時間が過ぎている。ダメなところを見つけるだけで、そこがどうしてダメなのかを考えていない。

自分の改善したいところに限らず、自分の好きなもの・嫌いなもの、判断基準など全てにおいて、どうして自分がそう思うのか、そこに一貫する自分の軸は何なのかを全く考えていない。要するに、今の自分には問いを立てて、なぜ?を考える力が全くない。

加えて今の自分は異常なほど自分の意見を言わない。ほんとに重症。なぜかずっと波風立たないようにその場での無難な答えを探してきて言ってるけど、誰かを傷つけないように、怒らせないようにとかではない。どこにも向いていない、誰のためにもなっていない遠慮をしている。人の目を気にし過ぎてよくわからないことになっている。

だから自分だけの日記ではなく、人の目にはつくけど自分を見ている存在を感じることはほとんどないこの場所で、自分がどうしてそう思うのかを書いてみる。自分のことをきちんと言葉で相手に伝えられるように。自分の話を聞いてくれようとする人に、なんで好きなの?と聞かれて、わかんないけど好きなんですよねー、みたいなことしか答えられずにヘラヘラしてるような人間から脱していくために。